メンタルモデル/艦娘の史実『霧島』
金剛型戦艦
1900年ごろまで、戦艦の主流は個々の砲手の技量に頼る「独立打ち方」であり、
砲戦距離はせいぜい1000mであった。
このため艦砲射程の長距離化とともに、命中精度向上の射撃方法が模索され、
同一のデータを元にした照準で同時に発射し、着弾後修正してゆく「斉射」の有効性が認識された。
そんな中、イギリス海軍により、斉射に特化し速力も向上された革新的な戦艦として、弩級戦艦「ドレッドノート」を皮切りに次世代艦が建造される。
これにより、従来の日本の主力艦は時代遅れになってしまう。
1910年(明治43年)イギリス海軍巡洋戦艦「ライオン」に着目し、英国の進んだ建艦技術を学ぶべく主力艦建造「伊号装甲巡洋艦」1番艦「金剛」をを英国に依頼。
戦艦「エリン」の巡洋艦版として金剛を設計。
その設計を基に
2番艦「比叡」を横須賀海軍工廠
3番艦「榛名」を神戸川崎造船所
4番艦「霧島」を三菱長崎造船所
同型主力艦4隻を同時に建造。
当初は海戦距離8,000m前後と想定されていたため、戦闘中に砲撃よりも強力な雷撃を併用することが考えられていた。
53.3cm魚雷発射管を8門装備していたが、有効性をみいだせず、第一次近代化改装で半減、第二次近代化改装で全廃した。
「榛名」と「霧島」は、初の民間による戦艦建造ということもあって熾烈な競争となった。
戦艦霧島
全 長 222.65m
全 幅 31.01m
乗 員 1303名
基準排水量 31.980t
武装 35.6cm45口径連装砲 4基
15.2cm50口径単装砲 14基
12.7cm連装高角砲 4基
25mm連装 10基
(他機銃は不明)
搭載機 3機
射出機 1基
1912年(明治45年)3月17日、巡洋戦艦として前日に起工した榛名と一日遅れ三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工。
1913年(大正2年)12月1日進水
1915年(大正4年)4月19日、就役。
佐世保鎮守府所属とした。
1921年、ワシントン海軍軍縮条約が締結。
1930年(昭和5年)に第一次近代化改装。
水平・水中防御を強化改善(バルジ装着)した結果、
排水量が増量により、速力25ノットに低下。
「巡洋戦艦」から「戦艦」に艦種変更された。
特別大演習観艦式(神戸沖)、陸軍特別大演習御統裁(横須賀)にて活躍。
1936年に第二次近代化改装。
混焼缶(重油を補助に用いる石炭缶の改良型ボイラー)から、ロ号艦本式重油専焼缶へ換装。
新造時、混焼缶36基→
第一次近代化改装、混焼缶6基、専焼缶4基→
第二次近代化改装、専焼缶8基。
タービン換装。
速力30ノットを超える高速戦艦として生まれ変わる。
53.3cm魚雷発射管を8門装備していたが、有効性をみいだせず、第一次近代化改装で半減、第二次近代化改装で全廃した。
1933年9月、海軍軍縮条約失効
太平洋戦争
1941年(昭和16年)太平洋戦争開戦時、「比叡」と共に第3戦隊第2小隊を編成、
南雲機動部隊(後に第三艦隊)の随伴護衛艦として参戦。
真珠湾攻撃・セイロン沖海戦・ミッドウェー海戦 ・第二次ソロモン海戦・南太平洋海戦の各海戦に活躍。
7月14日、艦隊の再編にともない「比叡」「霧島」は第3戦隊から第11戦隊に編入
第三次ソロモン海戦
1942年11月上旬、ヘンダーソン飛行場(ガダルカナル島)に対する艦砲射撃とガ島上陸作戦。
11月12日~ 夜間戦闘が発生。
挺身艦隊編成
比叡(旗艦)、霧島、長良の縦陣を中心に、第6駆逐隊(暁、雷、電)
第16駆逐隊(天津風、雪風)
第61駆逐隊(照月)
第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)
第4水雷戦隊 (朝雲)
第2駆逐隊第1小隊(村雨、五月雨)
「夕立」が米艦隊発見、戦闘開始。
「比叡」「霧島」は他艦と共同して重巡洋艦「サンフランシスコ」 と軽巡洋艦「アトランタ」を撃破した。
だが、「比叡」も集中攻撃を受けサボ島周辺にて大破、操舵不能状態となってしまう。
「比叡」と分離して北方に退避した。
その後、危機に陥った比叡を曳航すべく、「霧島」は南下を開始した。
当初「朝雲」が「霧島」に同行し、続いて「霧島」に合流した「天津風」は損傷のため「長良」と共に分離して北上した。
「霧島」も米潜水艦の雷撃で魚雷1本が命中したが不発であった。
前進部隊発令により救援を中止して北上した。15時25分、「春雨」も合同。
13日夕刻、曳航の見込みがなく損傷の進んだ「比叡」は放棄され、に沈没した。
金剛型戦艦初めての喪失艦であり、また太平洋戦争における日本軍初の喪失戦艦となった。
艦隊再編
○射撃隊(前進部隊指揮官直率)
第4戦隊(重巡洋艦:愛宕(旗艦)、高雄)
第11戦隊(戦艦:霧島)
第10戦隊(軽巡洋艦:長良/第4戦隊直衛)
駆逐艦:(電、五月雨)
○直衛(第4水雷戦隊司令官)
第4水雷戦隊(旗艦/駆逐艦:朝雲)
第11駆逐隊(白雲、初雪)
第61駆逐隊(駆逐艦:照月/霧島後方警戒)
○掃討隊(第3水雷戦隊司令官)
第3水雷戦隊(軽巡洋艦:川内/前路掃討)
第19駆逐隊(駆逐艦:浦波、敷波、綾波)
11月14日深夜、ガダルカナル島~サボ島海域(通称アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)にて、駆逐艦「綾波」を喪失。
3水戦は「綾波」救援用の浦波を残してサボ島東南東方面の海域掃討に向かった。
続いて「愛宕」「高雄」「霧島」がアメリカ海軍戦艦「サウスダコタ」「ワシントン」と交戦した。
当初「照月」「朝雲」は「霧島」の後方を航行していたが、反転により日本艦隊射撃部隊は「朝雲」「照月」「愛宕(旗艦)」「高雄」「霧島」という単縦陣となっていた。
「霧島」の主砲塔には対艦戦闘用の徹甲弾に変更する時間的猶予がなく、飛行場攻撃用の三式弾で砲撃を開始。
10時1分、愛宕、霧島は探照灯を戦艦「サウスダコタ」を発見する。
「サウスダコタ」はすでに前進部隊水雷戦隊との交戦で損傷を受けており、レーダーで4.8km先に発見した時には照射攻撃を受けていた。
「サウスダコタ」はレーダー機能と通信設備および第三砲塔使用不能という被害を受けて戦場から離脱した。
「ワシントン」は、「サウスダコタ」から離れて航行していた為、日本艦隊からの攻撃を受けていなかった。
「ワシントン」でも探照灯により目標を識別。
さらに米戦艦の発射した照明弾により日本艦隊は完全に姿を露呈。
16インチ砲9門による砲撃を開始する。
「霧島」はわずか7分間に16インチ砲9発の命中弾を受けたとされる。
霧島戦闘詳報によると、6発以上の被弾により前部電信室全滅、三番四番砲塔作動不能、舵機故障と被害が累加してゆく。
22時8分、「霧島」は米戦艦を追撃する「愛宕」「高雄」の艦隊運動に続行できず落伍していた。
その後火災は鎮火したが、舵取機室が満水となり面舵10度で固定、右舷に傾斜して直進不能となる。
「愛宕」「高雄」は戦場を迷走する「霧島」を残して「ワシントン」との戦闘を続け、その後日米双方とも戦場を避退した。
「朝雲」「照月」が「霧島」の護衛として残置されていた。
戦場に残された「霧島」では蒸気パイプが破損して噴出した高圧蒸気によって機関科員の殆どが戦死、再び火災が発生して弾薬庫誘爆の危機に陥り、注水作業を行う。
右舷に傾斜したため水平に戻すべく左舷に注水したところ、逆に一気に左に傾いてしまったという証言もある。
潜水夫による海中からの作業も失敗。
軽巡洋艦「長良」による曳航も不可能と判断される。
23時50分、右に傾斜しつつあった「霧島」は「朝雲」に救援を依頼した。
さらに『艦内大破操舵不能』『微速位出る見込み』と伝達。
駆逐艦「朝雲」による「霧島」の状況報告艦は、尾魚雷命中による浸水(「ワシントン」の40㎝砲弾と推定)。
00時42分、艦長は総員退去を決定。
軍艦旗降下の後、「霧島」乗組員は接舷した駆逐艦「朝雲」に移乗を開始した。
午前1時、駆逐艦「五月雨」が到着。
処分命令が出たため「五月雨」が砲撃しようとしたところ、「霧島」は急激に左傾斜を増した。
11月15日沈没
午前1時すぎ、サボ島西方(265度)11浬の地点で「霧島」は左舷後部から転覆して沈没した。
2時30分、救助を終え北方へ避退を開始。
生存者準士官以上69名、下士官兵1031名を救助した。